AMBのスラー記号を忠実に行うことは不可能である。なぜかというとスラーがどこからどこまでかかっているか判然としない箇所だらけだからだ。
そこで、綿密にいろいろ想像をたくましくしながら様々な試みをするのは大変楽しい。以前にも書いたが同一音形を同一のボーイングパターンで弾かなければならないというよく考えて見ればそれほど深い根拠のない思考回路から脱するという挑戦でもある。やっているとちょうどジャズマンが同一のフレーズをこれといった決まりを持たずいろんなフィーリングを交えながらやっている感覚に近いのではないかと思えてくる。
そこに要求されるのは、センスの良いフィーリング、バロック時代の言葉で言えば「趣味」(フランス語で goût 文字化けするかもしれません。英語ではTaste 味覚のことです)これをやり出すと、毎回違う楽しみ方ができてバッハを弾くのが2倍楽しくなる。
ところが楽しんでいるのはいいがいざコンサートで弾くとなるとそうばかりはしていられない。ボーイングは一つ間違えると取り返しがつかなくなることもあるので、本番ではできるだけ楽しみながらもできるだけ安全でなければならない。
写真を見ていただきたいのだが、これは第5番のサラバンド。
このサラバンドは慣例破りだらけの本当に変わった曲だ。スペインが起源のギターの伴奏がつく音楽だったので、バッハの他のサラバンドは(ヴァイオリンもチェンバロも含めて)ギター風の和音が多い曲がほとんどなのにこちらは、一切和音がない。
2拍目にアポジャトゥーラ音を多用してわずかにサラバンドの性格を出している以外は実に奇妙な曲だ。演奏者は何をしていいのか分からないとった感じの曲だ。
ところが楽譜を見ていてハッと気づいたことがある。スラーのかかり方だ。
よく見ると毎小節4個の8分音符の2個目から4個目にかかっているように見えるではないか。いや、そう思って見るとそうとしか見えなくなるくらい明白にすら見える。
さて、そうすると例えば1小節目はEs-H*、次とその次はAs-E*その次も毎回のように減4度という非常に表情的音程関係が浮き上がってくるではないか。
これは僕には新発見だった。これまでの多くのエディションでは4個の8分音符にスラーがかかっているものばかりだったからなんとなく当然そうだろうくらいにしか深く考えなかった。
昔、フラショー氏に習っていた頃彼女がフルニエから聞いた「このサラバンドは誰のためでもない自分に向かって自分の音楽を弾くのみだ」という言葉は今でもよく覚えているが、実はこれはある意味裏返しの言葉で、チェリストはこのサラバンドは簡単すぎて何をしていいか分からないのだ。いや、正直にいうと自分もそうだった。
このアーティキュレーションを行うことによって、音楽の広がり方は別次元のものになったと言ったら大袈裟だろうか。
弦楽器奏者のみならずとも、レガートをいかに綺麗に美しく弾くことに心を砕かなかった人はいないと思う。美しい旋律は美しいレガートから生まれる。美しいレガートは歌うように滑らかに隙間なくびっしりと密度のある音の連なり、または真珠の球ののような艶やかな音の連続を夢見る。そうしてそれを実現するために多大な時間と鍛錬の結果導かれるものだ。と、ここまでの考えに異論を挟む音楽家はいないと思う。
ところが、ところがである。バッハだけではなく19世紀以前の音楽を演奏する場合この概念は正しくもあるが、そうでもないことが多いことに気づいた。連続する同一な音型があった場合、僕たちは学校で嫌という程均一なレガートで弾けることが唯一音楽的であるかのようにいろんな先生や先達から教えられた。
例えばバッハのチェロ組曲第1番のプレリュードは8個の16分音符をレガートで綺麗につなげて弾けることが最善で最大に音楽的だと思いこまされた。第3番のプレリュードの16分音符は均一なレガートで弾けることが美しいことだと人は言う。第4番の同じくプレリュードはゴツゴツした音型にもかかわらずできるだけ音を途切らせることなく弾けることが名人だと言われた。第6番のプレリュードもほんのちょっと前までは3つの8分音符ごとに途切れなく弾くことの方が主流であった。
果たしてそうかと疑問に思ったのはまだ芸大の学生の時だった。くだんの1番プレリュードを当時の師レーヌ・フラショーは最初の3個の16分音符をレガートにして残りの5個は、「切って」弾くことを提唱していた。僕も少なからずびっくりしたがやってみるとなるほどと思うに至った。今ではYouTubeなどでいくらでも出ている演奏の9割がたはそう言う弾き方をしているが、70年代当時はかなり挑戦的、または挑発的な弾き方だった。こう言う考えにすっかり魅せらて、他の組曲でもそう言う考えをどんどん推し進めていった。ちなみにヴィブラートをかけないと言うこともほとんどご法度だった当時からやってみたりしていた。これについてはまた別の機会に。(ヴィブラートはかけてはいけないわけでもないし、かけるときはどうかけるかと言うことなのだが)
さて、またAMBの写譜の話に戻ることになるが、今までレガートで弾くことが当たり前だったいろんなフレーズは実は何も書かれていないか、いろんなスラー記号のかかりかたがあることに気づくとまた別の音楽の見方が出てくるのが面白くてやめられない。
例えば、第5番のプレリュードのように16分音符が間断なく続くパッセージでは、上記のような考え方からスラーをどういう風にかけてフレージングをしようかと言うことに大変悩まされ、そのやり方一つで良くも悪くもなる大変悩ましい課題だった。ところが、AMBを見るとスラー記号が何も書いていない場所がたくさんあるのだ。ではそれらを全て「切って」「ギコギコギコ」と弾くのが美しいのか。それはない。これを「ギコギコ」ではなくいろんな子音や母音を交えた弾き方に変化させるのだ。どんな子音かと言うのはなかなか言葉で言うのは難しいが僕が演奏に際してよく連想するのはフルートのアーティキュレーションだ。
フルートは歌口が口の外にあるので、他の木管楽器と違う柔らかなアーティキュレーションができるような気がする。例えば8分の3拍子の数小節に渡って16分音符が連続している場合、その全てをTuKuTukuTuku TuKuTuKuTukuと吹くとある一定の均一性が生まれる。またはこの全ての音をタンギングなしでレガートにするとフレージングはますます均一になる。ここで、タンギングを(ということはボーイングな訳だが)例えばほんの一例としてHHaHatututulu lululutululuのように変えてみたりする。そうすると同一だった16分音符が不均一にすることができる。(これをフランス語で Inégaleというが最近イネガル奏法とかいう言葉も日本で聞くようになってきたが、ナントカ奏法ではなくて不均一に弾くという意味でしかない)
こうする代わりに、全ての音に「美しいレガート」をかけて弾くと全ての音が均一に滑らかに響いて退屈な音の連なりになる。そうしてその時点でそのフレーズの演奏はそのボーイングが音楽を支配してしまって、変更の余地がなくなる。なぜ不均一にするか、それは連続する同じ音価の音符を均一に弾くことは例外を除いて美しくないからだ。少なくとも18世紀中頃までの音楽は。このやり方で行うと演奏のたびに様々な子音や母音を好みで入れ替えられるという信じられない自由度が得られる。
今日の会場は残響が多いので少し硬めに「Tufutukufuk」にしようとか。残響が少なく響が悪い日は「Hofuhafuhafu Tufuhofulofu」とか、その時々で様々にアーティキュレーションを変えられるのだ。そうしてそれをどうするかはフレージングと前後の関係で様々に変化させるがこれといった確たる断定はしない。その場のフィーリングが決めるられる余裕を作っておく練習をしておく。そしてここぞというときはKatadukadakaとかいった硬い響も作れるということな訳だ。
copyrigt Naoki TSURUSAKI